Study and Actual Work of Creative Writing
クリエイティブ ライティングの探求と実作
先日、久しぶりに小説を書こうとしたのですが、「ストーリーを考えてもつまんないな〜要はイメージと文体だよな〜」と思っちゃったので、「クリエイティブ・ライティング」というものを勝手に研究し、同時進行で実作をしていきました。
その結果として、12篇の短い小説が誕生しました。
各篇に通奏低音のように流れるのが、横浜の南東部を流域とする大岡川という川の存在で、この川が思念したり語ったりすることから、大岡川を主人公に据えた掌篇集とも言えます。
12篇のうちの1篇をここに掲載します。ご高覧を賜りますなら幸いです。

十歳のペドフィリア
小学三年から四年、五年にかけての年で、多少頭のいい子なら、人に言えない暗い夢を隠し持っているのは間違いない。とりあえず学校へ行くことと親や先生に怒られないようにすることしか考えていないようだが、隙あらば不埒な欲を叶えてみたいと狙っている。
川岸にいる、あの女の子もきっとそれだ。十歳くらいで、床屋が切りそろえたおかっぱ頭、体操着のような白シャツに赤いジャンパースカートを着せられて、しかめ面で歩いている。目を細めているのは日の光がまぶしいからで、機嫌が悪いわけではなさそうだ。
おかっぱ頭は、人間なのに人形によく似た三、四歳の女の子の手を引き、時々何やら嬉しそうに話しかけている。ふたりが姉妹でないことは一目瞭然。着ているものがまるで違う。人形の子は胸元やスカート裾にフリルがついた薄手の服。腰まで届く髪にウエーブがかかっている。寝起きの乱れ髪とネグリジェのまま出てきたような、しどけない姿だ。こんな子を、いったいどこで借りてきたのだろう。
「寒くない? 平気だよね?」と、おかっぱ頭は人形の子を気遣った。そして十字路を曲がり、狭い路地へ入っていった。
「もうじきだからね、頑張るんだよ。宝物の隠し場所を教えてあげるからね」と、おかっぱ頭が言うのが聞こえた。
川の水は、そこで動くのをやめた。朽ち果てた小型ボートの脇に木片やら紙屑やらの漂流物が溜まっているので、自分もそこに引っかかってしばらく様子をうかがうことにしたのだった。
「おうち帰りたい」人形の子が急に不安げな声を出した。
おかっぱ頭は「大丈夫だよ。あたし、のんちゃんのママにちゃんと言ってきたもん。のんちゃんはおねえさんと一緒に公園まで行ってちょっとだけ遊んだらすぐに帰ってくるって、ママはちゃんとわかっているよ」と言い聞かせ、「それよりもさあ、おしっこしたくない? おうち出るとき、おしっこしてこなかったでしょ?」と誘いを向けた。
女の子ふたりは、路地の中程まで来ていた。滅多に人の通らない裏路だ。周囲に何軒か建っているが、誰かが窓から見ているわけでもなかった。
「ここでしちゃおう。おしっこ漏れちゃうといけないもん」
おかっぱ頭はかいがいしい素振りで人形のスカートをまくり上げ、純白のパンツを膝までおろしてやった。そのまま人形を立たせておき、股間を見つめた。
ふわふわで柔らかそうな肌。桃の割れ筋のような窪みが身体の真下から腹のほうへせり上がっている。チューリップの芽に似た小さな突起がある。おかっぱ頭の股にしびれが来た。
いたいけな人形の子も、さすがにこれは何か変だと察したらしい。放尿を促されているのに、しゃがみこもうとするたび、近所のおねえさんが押しとどめるのだ。「いいから立ってろ」と言わんばかりに。
おかっぱ頭は、人形のスカートをたくし上げるので両手がふさがっていたが、もしその必要がなければ、今にも手を出しそうだった。顔を近づけ、口を近づけることさえしたかもしれない。だが、そこまではしなかった。ただ、見るだけ。しげしげと眺めるだけだ。
次に人形を外へ連れ出すときは、人の目が決して届かない物陰へ誘い込み、そこに人形を寝かせてパンツをおろし、好きなだけ見ていたい、股間を少し開かせていじってみたいと、そんな夢を見ているのだろうか。
だけど次の機会など、あるもんか。人形の子はたぶん親に言いつける。うまく説明できないだろうが、それに自分が悪いことをしたせいだと思って言い出せないかもしれないが、とにかく嫌だったとぐずることならできる。だからおかっぱ頭がまた人形を迎えに行ったら、親はやんわりと断るだろう。そしてお互い、行き来のあったことを忘れる。時が経てば、何もなかったことになる。
今、おかっぱ頭は放心しているように見える。自分でも何がなんだかわからないのだろう。おぞましい欲望に翻弄される魔の季節にいることを知らずにいる。
今日、こうなる一部始終を、川は見ていた。そして念じた。はやく気づけ。はやく人形のパンツを上げてやれ。そして、何事もなかったように家に帰すのだ。さもないと、とんでもないことになるぞ、と。
おかっぱ頭は我に返って動きだした。それで水もまた澱みを離れて動きだし、河口へ向かった。時が経てば、何もなかったことになる。

作者による解題
十歳の女子が三、四歳の女児の股間を見たがり、こっそり悪戯しようとするのは、本当にあったことなのか?実体験か? と疑う読者もいらっしゃるでしょう。しかしこれは作者の妄想による、でっちあげ話です。
それでも作者の潜在的欲求のあらわれだろうと言われれば、とりたてて否定はいたしません。そういう欲望もあるのかな、と思います。
この作品では、川がものを考え、十歳の女の子に向けて思念を飛ばしています。しかし川と人が意思疎通できるはずはなく、川が語りかけようとしたことは一抹の泡のごとく消えてしまいます。
果たして女の子は実際に性的悪戯をしようとしていたのか。そして川は、人の性的嗜好を察知して何かしら思うところがあるのだろうか。──そういうことはどうでもよい。真偽を問うことをやめてこそ、作者念願の反リアリズムへと進むことができます。
作者は、反リアリズムの中でも殊に、グロテスクリアリズムと言われる作風に惹かれます。文芸評論家の言説を参照しながら言うと、それは病的なまでに暗くエロティックで、倒錯に満ち、澱がたまっていて、奇異奇怪で、既成概念に対して反抗的で、我々の最も不埒な夢をさえ越える醜怪さ。そうしたグロテスクなビジョンが現実のこの醜い世界を覆し、超越的に輝く。ということになります。
進むのは、この方向だな。と作者は思っています。