Study and Actual Work of Creative Writing
クリエイティブ ライティングの探求と実作
先日、久しぶりに小説を書こうとしたのですが、「ストーリーを考えてもつまんないな〜要はイメージと文体だよな〜」と思っちゃったので、「クリエイティブ・ライティング」というものを勝手に研究し、同時進行で実作をしていきました。
その結果として、12篇の短い小説が誕生しました。
各篇に通奏低音のように流れるのが、横浜の南東部を流域とする大岡川という川の存在で、この川が思念したり語ったりすることから、大岡川を主人公に据えた掌篇集とも言えます。
12篇のうちの1篇をここに掲載します。ご高覧を賜りますなら幸いです。

爺さんと世間
南太田、黄金町、日ノ出町──これら三駅間の京浜急行電鉄京急本線は、大岡川に並行して走っている。だから乗ればたいてい乗降扉の近くに立ち、川沿いの景色を眺める。桜の時季は必ずそうする。
通勤通学のラッシュ時は避け、午前十一時から午後四時までと、適度に人がいる時間帯を選んで乗っている。たまに座席で、ほかの乗客を観察することもある。
向かい側に、男が六人並んで腰掛けていた。コロナ禍がはじまる前のことで、席に空白はなかった。六人のうち一人だけ、見るからに後期高齢の翁、つまり爺さんがいた。あとはみな、今日はたまたまラフな格好をしているけれど、いつもはスーツとネクタイなんだよというような年代だった。
窓から真っ直ぐに陽が射していた。人々は虚空を見ている。おしゃべりの声はない。車輪の音しかしない。それさえ聞こえなくなる。静かだった。
なのに爺さん突然立ち上がり、自分の身体を叩きだした。シャツ、上着、ズボンと、いくつもあるポケットをさかんに叩く。〇八〇八、爺さんどうした。〇一、何やってんだよ。七一、七一ッ、七一四ッ。
「財布ですかぁ?」と、爺さんの隣にいた男が迷惑そうに言った。三。掏摸の嫌疑をかけられてはたまらない。反対側の隣にいた男、男というよりも〇二三という感じの人は知らん顔だった。六四。人それぞれ、一六一六だ。
こんな騒ぎも面白い。八八八、一一七、一一七と、二八二八してしまう。で、爺さんはと見ると、三七四、まだ四九八九しているじゃないか。目を四六九六させている。四八だらけの五二五二した顔を真っ赤にしている。六三九六四一眺めだ。一八だねえ、三二九一ねえ。見ているこっちは六七九六四一よ。
どうだ爺さん、世間が二九一か。爺さんはそのうち七九だろう。ぜったい七九四。盗られた九八四一、四九四九ってね。それも四一四一、九九九、見ものじゃないか。泣いたら泣いたで、八一八一、七九七四と言ってやる。こっちは失くしもの探しが四五一〇じゃないから、ただ七九七と突き放す。
だが爺さんは泣かなかった。そりゃまあ、いい年をして人前で泣けるわけがないか。
爺さんは頑張って考え、八ッ一〇何か思い出したらしい。「財布持って出るの忘れたぁ!」大声でそう言った。
この場をおさめるための九二九の三九ではないだろう。そんな器用な真似ができるとは思えない。爺さんは本当に忘れてきたのだ。忘れたことも忘れていたのだ。〇四一。じつに惜しい。騒ぎ立てる前に思い出せたらよかったのに。と教えてやっても、爺さんには一三不明、何のことだかサッパリかもしれない。
日ノ出町駅に着いた。爺さんは取ってつけたような二五二五顔で、電車を降りる。爺さん一九七四、ごめん、何もしてやれなくて、と心の中で詫びた。一一四、ポッケに小銭があるから大丈夫、俺は一九四、と爺さんは言わずに行ってしまった。

作者による解題
数字を使って言語遊戯をしてみました。この手の遊びは、多くの方が一度はやってみたことがあるでしょう。作者の友人も昔、数字遊びを随所にちりばめた手紙を書いて寄越したことがあります。爆笑につぐ爆笑の文面でしたが、読み返して二度目、三度目ともなると、もはやたいして可笑しくはなく、ああいうものは謎解きの面白さがあってこそ活きるのだと知りました。本作をご覧になった皆様にはもう手遅れでしょうが、初見のひとときを存分に味わってほしいと願う次第です。
余談ながら、後期高齢者の男性は女性に比べ、どうも可愛げがないように感じられてなりません。世間の人々もそう思っているのか、お婆さんには何かと親切にしてやっても、お爺さんのことは見て見ぬふり、ということがよくあるような気がします。
そんな世相や人々の心理をあぶり出せたらと、「法螺吹き女王」に続けてここでも、皮肉と諷刺と諧謔の「穿ち」を狙って筆を進めました。