Study and Actual Work of Creative Writing
クリエイティブ ライティングの探求と実作
先日、久しぶりに小説を書こうとしたのですが、「ストーリーを考えてもつまんないな〜要はイメージと文体だよな〜」と思っちゃったので、「クリエイティブ・ライティング」というものを勝手に研究し、同時進行で実作をしていきました。
その結果として、12篇の短い小説が誕生しました。
各篇に通奏低音のように流れるのが、横浜の南東部を流域とする大岡川という川の存在で、この川が思念したり語ったりすることから、大岡川を主人公に据えた掌篇集とも言えます。
12篇のうちの1篇をここに掲載します。ご高覧を賜りますなら幸いです。

なくしたものは何?
生後二年になる雌猫。この雌猫は去年の春、いきなり発情して狂ったような声をあげた。床に身体をこすりつけて悶えた。それが一日中続くので、七転八倒とはこのことかと思った。あまりに不憫なので外へ出し、ともかく一度は経験させることにした。
翌朝ケロリとした顔で戻ってきたので、卵巣と子宮を摘出する手術を近場の獣医に申し込んだ。腹に子種が宿っているにしても、子種ごと無くしてしまえばいい。別に可哀想だとは思わない。五匹も六匹も生まれて、早晩死ぬことになるほうが気の毒だ。
術後は順調に回復し、抜糸も済んで、首に装着した漏斗のようなプラスチックも外した。性ホルモンのバランスは大きく変わったはずだが、猫は太りもせず、性格が凶暴になることもなく、穏やかに過ごしていた。
今年は春がきても発情期などどこ吹く風で、猫は出窓に飾った置物のように、見えるかぎりの草花や蝶の動きを目で追った。外で遊びたくても出してもらえないので、風邪などひかず、お腹もこわさない。病気ひとつしない丈夫な子でいてくれるのがありがたかった。
それが突然どうしたことか、いつもと違うものを食べさせたわけでもないのに身体が熱を持ち、腹部の和毛が古毛布のように湿って毛束になった。部屋の隅でぐったりしているのを抱き起こし、持ち運び用の籠に入れて獣医へ連れて行った。今度もまた近場の、橋のたもとにある病院だった。
診てもらう番がくるまで、診察室の前の小部屋でしばし待つことになる。愛玩犬を抱いた男の隣が空いていたので、そこに座った。男は五、六十代の初老で、男のくせにどことなく所帯やつれしているように見えた。犬はまだ若いポメラニアンらしい。男はこちらを見ようともしなかったが、ポメラニアンは急にソワソワしだした。丸いボタンのような黒目でこちらを見上げ、何か言いたそうにもじもじして軽く暴れている。発熱した雌猫の匂いに反応したのかもしれない。
「なんだよ、おまえ。何が言いたいんだよ」と男が叱った。「おとなしくしてなきゃ嫌だよ。こんなところで駄々こねやがって。だったら母ちゃんと来ればよかったじゃねえか。な、そうだろ」とも言った。ポメラニアンの子に話しかけているのだった。
ほかにも人間二人と犬猫が一匹ずついた。一匹は日本の中型犬で、剥き出しだった。首輪につないだ紐を付き添いの男が手に握っている。男が着ているものは上下ともジャージだが、髪型から察するに会社員のようで、中年のおとなしそうな人だった。
もう一匹は猫で、うちのと同じように籐の籠に入れられている。姿は隠れているが、ニャオと小さく鳴くのが時々聞こえる。付き添っている男はこれまた良識ある社会人ふうで、若くもなく年寄りでもなかった。きちんと背筋を伸ばして椅子に腰掛け、大事そうに籠を抱えていた。
ここの先生も男性なので、周りは男だらけだ。ポメラニアンも雌猫に関心を示すくらいだから、たぶん男だろう。中型犬のほうは、男なのか女なのか定かではない。後ろから見れば睾丸のあるなしで見分けがつくが、この態勢ではわからない。
うちの猫は生殖器をなくした女だが、あちらの猫は男女どちらだろう。か細い声をあげていたから、きっと女の子なのだろう。あるいは、おばさん、ひょっとすると婆さんかもしれない。
診察室の扉が開き、シェパードの血が混じったような大ぶりの犬と、図体のでかい男が飛び出してきた。犬は一刻も早く退散したいらしい。前のめりに走ろうとするので首輪で首を絞めつけられるが、ものともせずに大男を引っ張っていった。
「もうじきだからな」と、所帯やつれした男が愛犬に言った。ポメラニアンは男の腕の中で黙っていた。男は壁の掛け時計にチラリと目をやり、ああ俺も早く帰りてえタバコ吸いてえ酒飲みてえとつぶやいた。
日本の中型犬と会社員ふうの男が診察室に招き入れられた。後ろ姿に睾丸がぶら下がっていた。犬は特に具合が悪そうでもなかったから、予防注射でも打ちに来たのだろう。すぐに終わって、入れ替わりに、か細い声で鳴く猫と付き添いが行った。
「待ってろよ、次だからな」と男がまた言った。「待ちきれないのは、あんたのほうだろ」とポメラニアンが返した。たしかにそう聞こえたが、空耳だったかもしれない。うちの猫は籠の中でぐったりしている。
やがてポメラニアンの番がきて、名前を呼ばれた。「エトウ・ワンダくん」。獣医の声だった。はいよ、と男が返事をして中に入った。開いた扉の向こうで、診察を終えた猫と付き添いが白衣の女性に金を渡していた。人間の女がもうひとり、いたのだった。それから、「今日はどうしました」と獣医の声がして、「虫下しの薬、うまく呑ませられないって母ちゃんが言うもんだから」と男が答えるのが聞こえた。これにはちょっと驚いた。そんなことで、いちいち連れて来るのか、と。やつれた顔をしていても、家計が苦しいわけではないのだな。何か商売でもしているのか。やつれて貧相に見えるのは、おそらく酒とタバコが過ぎるせいだな、と。
エトウさんちのワンダとかいう犬が薬を呑みさえすれば、次はうちだ。そう思っているところへ、会計を済ませた猫と付き添い男が出てきて扉を閉めたので、診察の様子を窺えなくなった。うちの猫は籠の中でぐったりしている。
ほどなく、エトウさんが満足げな顔でワンダを抱えて帰った。ついに、番が回ってきた。新たな患者はやってこない。午前中の診察は、うちで最後だ。時間をかけて、よく診てもらおう。
獣医は籠を受け取って診察台の上に置き、やさしい手つきで猫を引きずり出した。猫はあわてて起き上がり逃げようとするが、獣医の大きな手で取り押さえられる。白衣の女性も加わり、腹這いの平たい猫を撫でつける。猫は肛門に体温計を入れられ、全身くまなく触診され、口の中と舌の状態を調べられる。それで結局、抗生剤の注射と水分補給の皮下点滴を施すことになった。
獣医が言うには、「手に触れる腫瘍ができているわけではないので、白血病とかリンパ腫とか、そういった心配はまずないでしょう。となると、何らかの原因でウイルスか菌に感染したのかもしれませんね。感染性の肺炎、腎盂腎炎などを引き起こす可能性はありますが、おうちから出ない猫ちゃんの場合は、ただ風邪をひいただけということもよくあるんです。薬で熱が下がって元気になれば、特に問題はないと思いますよ。しばらく様子を見ましょう」とのことだった。
猫が点滴の処置を受けている間に、世間話の体を装って聞いてみた。「さっきのエトウさん?ですけど、エトウさんちのワンダくんはよく来るんですか」と。「可愛いワンちゃんだなあと思って」と、心にもないことを一言つけ足した。
「そうですねえ、わりとよく来るほうですよ」と獣医は言い、「ご近所なんです。ここから歩いて三分とかからない。奥さんとふたりで酒屋をやっていたんですけど、去年だったか今年かな、奥さんを亡くされて」と、よけいなことまで教えるのだった。願ったり叶ったりである。
そうだったか、あの所帯やつれして見える男には、やはりそんな事情があったかと、妙に腑に落ちるものがある。なぜか嬉しい。
弾む足取りで猫を連れ帰った。猫は籠から出て、いつもどおりにソファで寝た。夜になると熱もだいぶ下がったようで、缶詰のペースト肉をいつもの半分ほど食べた。飲み水の皿にも舌を入れていた。そして翌日、さらに翌日と次第に調子を上げ、今はすっかり元に戻った。

作者による解題
何の変哲もない日常に、さも当然のように非現実的で不可解な現象が紛れ込む。そんな一瞬を描いてみたくて、この作品に着手しました。
こうした場合、おおいに参考になるのが、ラテンアメリカ文学によく見られるマジックリアリズム(別名、魔術的リアリズム)の技法です。そこでは現実の合理的な世界を舞台に、神話や架空の物語世界でお馴染みの非合理な出来事や超常現象が頻繁に起こります。しかもそれを「ごく当たり前のこと」として平然と描くので、読者は現実認識との間に齟齬を来し、違和感とも不安ともつかぬ奇妙な感覚を覚えるのですが、いつしかそれも快感になっていくわけです。
マジックリアリズムといえばラテンアメリカ、というのが定説のようになっているようですが、実はマジックリアリズムの大元は一九二〇年代のドイツ、それも美術の分野に端を発し、次第に文学の分野に波及していったのだそうです。
複眼をもって「合理的現実」と「魔術的非現実」を同時に見るというドイツのマジックリアリズム、その最大の作家として、エルンスト・ユンガーの名が挙げられています。また、フランツ・カフカやギュンター・グラスの小説もマジックリアリズムにカテゴライズされることがあるそうです。
イギリスの作家アンジェラ・カーターもマジックリアリズムの人で、現実と非現実が渾然一体となった小説を数多く残しています。アンジェラ・カーターが教鞭をとったクリエイティブ・ライティングコースでは、カズオイシグロも受講生の一人で、アンジェラ・カーターが亡くなるまで、ふたりは生涯の友だったそうです。
いっぽうで南米のアルゼンチンにはホルヘ・ルイス・ボルヘスという大家がいて、マジックリアリズムという言葉が生まれる以前から、現実の世界を離れて夢を見ているような作品を数多く著しています。
そうした文学的土壌の上に次々と花開いていったのがラテンアメリカの作家たちによる幻想小説で、その作品群は一九六〇年代に一大ブームとなり、「マジックリアリズム」という呼び名も全世界に知られるようになった、とのことです。
本作「なくしたものは何?」では、神話や伝奇なみに破格の騒動は起こりませんが、我々日本人に馴染みの深い心情、「山川草木や生類すべてに仏性(魂)がある」とする考えが顔をのぞかせています。ペットの犬や猫、死んだ奥さんなどを、現実世界に生きる人間たちとほぼ同格に扱って違和感を持たぬ人々を描いてみたのです。