と、ある人が言いました。
私は首を傾げて、
と指摘しました。するとその人は、言い換えることを試みたのです。
「寝てられる? 寝てれる? 寝ていれる?」
?……どれなら合ってる?と言われても、どれも微妙に変ですが……。
たった1文字でも、よけいなものが付いていると(あるいは足りないと)不自然に感じます。
たとえば──
い抜き・寝てられる
れ足す・寝てれる
ら抜き・寝れる 寝ていれる
「い抜き」「れ足す」「ら抜き」の言葉は、家族や友人など気の置けない人との間でなら良いと思いますが、ビジネス上の会話や書き言葉としては不適切、と思います。
ここでは、なぜ「ら抜き言葉」になってしまうのか、掘り下げて考えてみます。
●ら抜き言葉「れる」
日常会話において、「ら抜き言葉」は一般化しているようです。
こういう言葉遣いにしょっちゅう出くわすのです。
あなたもきっと耳にしたことがあるでしょう。
というように、
私もかつては、「見れる」「食べれる」「寝れる」なんて平気で言っていました。
それは「ら抜き言葉」だよ、と人に指摘されるまで、気づかなかったのです。
「れる」の前に本来あるべき「ら」がなぜ抜け落ちてしまうのか。
1文字でも省略したほうが楽だ、と感じるからでしょうか。
しかし現段階では、「ら抜き言葉」は文法的に誤りであるとされています。
●「れる」「られる」の4つの意味
「~れる」「~られる」は「受身・尊敬・可能・自発」の4種類の意味を持ちます。
【受身形の例】
「人に裸を見られた」
「彼氏に叱られる」
【尊敬形の例】
「先生が家を出られた」
「奥様は怒り狂われた」
「愛人の女性は外国へ旅立たれた」
【可能形の例】
「よく寝られた」
「朝早く起きられた」
「ご飯を食べられる」
「いつものバスに乗れる」
「これで試験を受けられる」
「もう少し早く来られるかな」
「ついに大学生になれる」
「これなら文句を言ってやれる」
【自発形の例】
「昔がしのばれる」
「お里が知れる」
「別れた夫の身が案じられる」
ここまで読んでくださった方ならお気づきのことと思いますが、
上記例文の語尾は「れる」と「られる」の2種類があり、
必ずしも「ら」が入っているわけではありません。
というように、場合によっては「ら抜き」の「れる」で間違いではないのです。
などは、「る」で終わる動詞です。
●「る」で終わる動詞を否定形にしたとき、「〜ない」の直前の字が「ら」になるならば、「~できる」という意味の可能動詞に変換するとき、「れる」の前に来る「ら」を抜いて間違いでないのです。
○「座る」を「〜ない」の形にするときは、「座らない」となりますね。「ない」の直前が「ら」ですから、「ら」を抜いて、「座れる」としていいのです。
○「触る」「踊る」「乗る」「釣る」「蹴る」「掘る」「彫る」「練る」の場合も同様で、「触れる」「踊れる」「乗れる」「釣れる」「蹴れる」「掘れる」「彫れる」「練れる」でOKです。
○「寝る」の場合は違います。「寝る」の否定形は「寝ない」となり、「ない」の直前に「ら」がありません。
ですから、「〜できる」という意味の可能動詞にするには、「ら」を入れて「寝られる」とすることが求められます。「寝られる」の否定形は、「寝れない」ではなく「寝られない」です。
もうひとつ、法則があります。
●「〜しよう」の形に変えたとき、語尾が「よう」になるなら、「ら」は必要。
●語尾が「ろう」になるなら、「ら」は不要。
たとえば「開ける」は「開けよう」となりますから、「ら」が必要で、「開けられる」とするのがいい。
「座る」は「座ろう」となりますから、「ら」は不要で、「座れる」としてOK。
ということです。
上述の9例に話を戻しましょう。
「ら」を抜いていいのに抜かずにおくと、
となります。
↑
「~できる(~することが可能)」と言いたいのか。
「(人に)~される」のか。
敬うべき人が「~なさる」と敬語表現をしているのか。
さっぱり区別がつきません。
これに対し、同じ「ら抜き」でもたとえば、こんな例外があります。
・「見れる」という場合は、「見ることができる」という「可能」の意味を示し、それ以外の意味ではないと区別をしやすいでしょう。
・「裸を見れる」というときは、「人に裸を見られる」という「受身」の意味でなく、「裸を見ることができる」という意味なのだとわかります。
・「ただで見れる」という表現は、「お客様が見られる・ご覧になる」というときのような「尊敬」の意味でなく、「ただで見ることができる」と言いたいのだとわかります。
・「誰でも見れる」という表現は、「その点に問題が見られる」というときの「自発」の意味でなく、「誰でも見ることができる」という意味なのだと理解できます。
↑このように、「受身・尊敬・可能・自発」の区別がつくので「ら抜き」は合理的だ、とする人々もいます。
●●●
それでも、区別さえつけばいいというものではないでしょう。
「ら抜き」言葉に違和感を覚える、不愉快に感じる、という人も少なくないのです。
どのように言えば相手に誤解がないか、ら抜きの「れる」でいいのか、「られる」にしたほうがいいのか、と考えることを習慣づけましょう。
●まとめの一言
「れる」「られる」がつく言葉を遣うときは、「受身・尊敬・可能・自発」という4種類のうち、どの意味で遣いたいのかを考えてから口にするようにしましょう。
覚えておくといいのは、次の2つの法則です。
●「る」で終わる動詞を否定形にしたとき、「〜ない」の直前が「ら」になる動詞ならば、「~できる」という意味の可能動詞に変換する際は、「れる」の前に来る「ら」を抜いて間違いでない。
例/「座る」の否定形は「座らない」で、「ない」の直前に「ら」があるから、可能動詞にするときに「ら」は不要で、「座れる」としてOK。
例/「寝る」の否定形は「寝ない」で、「ない」の直前に「ら」がないから、可能動詞にするときは「ら」が必要となり、「寝られる」とするのが適切。
●「〜しよう」の形に変えたとき、語尾が「よう」になるなら、「~できる」という意味の可能動詞に変換する際に「ら」が必要。語尾が「ろう」になるなら、「ら」は不要。
例/「投げる」の変形は「投げよう」となるので、「ら」が必要となり、「投げれる」ではなく「投げられる」とするのが適切。
例/「走る」の変形は「走ろう」となるので、「ら」は不要であり、「走れる」としてOK。
この2つの法則を一度しっかりと理解すれば、「れる」「られる」のどちらが適しているか、一瞬にして正しい判断が下せるようになります。
題材にしていた言葉で検索していたので、参考になりました。ありがとうございました。
昔、「ら抜きの殺意」という演劇を見たことがあります。それから、「ら抜き」に違和感があって仕方がありません。
見たと言っても、知人がビデオで見ているところを途中だけ一緒に見たので、作品が訴えたい内容を汲めていないかもしれませんが。
参考になれば幸いです。
「ら抜きの殺意」という演劇があったのですね。教えていただきありがとうございます。私は殺意までは覚えませんが、ら抜きにはかなり不快感をいだいております。某「YouTube大学」などは内容かなり良いのに、ことごとく「ら抜き」言葉になっているので聞き苦しく、幻滅です。なんとかならないでしょうかねえ。
通りすがりの者ですが、激しく同意です。内容はいいのに、すごいら抜きの連発で幻滅ですね…知的な内容を発信しているなら、知的な話し方もしてほしいものです。まあ、軽いノリが売りなのでしょうけど…
こちらは、アンチら抜きにとっても分かりやすいページで、しかも日付が最近で感動いたしました。どれも、ら抜き否定のページは10年くらい前のもので、最近はら抜きを批判すると、逆に批判され返しかねないので・・・
教育現場で働いているのですが、教員も、老いも若きもら抜きです。もう信じられない。何でもらを抜けばいいと思っている。
私なぞ、「きれる」と言われて、「何が切れるのかな?」と思ったら、相手は「着れる」と言っていたということがあります。ら抜きの弊害だってあります。
らを入れると、受け身と区別がつかないと言いますが、ら抜きのために、こういう間違いだってあります。それに、らが入っても前後の文脈で受け身か、可能かなんてわかると思います。
通りすがりのお方、ありがとうございます。おっしゃること、よーくわかります。教育現場でのお仕事、大変でしょうが頑張ってください。ところで、「通りすがり」という語について最近考えることがあります。「通りすがる」「通りすがった」という人がいて、それは日本語としておかしな使い方ではないかと違和感を持ったのです。辞書には「通りすがる[動ラ五(四)]たまたま来かかって、そこを通る」と記載されているので誤用ではないようですが、私の語感では、「通りかかる」「通りかかった」「通りすがり」はOKで、「通りすがる」「通りすがった」「通りかかり」はNGという気がしてしかたありません。通りすがりのお方はどう思われますか?
批判され返すって変ですね。批判し返されかねない?ちょっとややこしいのですが、批判すると逆切れされるって意味で言いました。「言葉は生き物だから変わるものだ」とか「今どき、ら抜きを批判するなんて頭が固い」など言われかねないという意味です。
承知しました。ご丁寧にありがとうございます。「批判し返されかねない」「批判を返されかねない」「批判をし返しされかねない」、←どの表現でも良いと思います。