「偏在」と「遍在」の違いは何?
「偏在」とは、ある箇所にだけ偏っていること。
「遍在」とは、広くあちこちに行き渡っていること。
「礼遇」と「冷遇」の違いは何?
「礼遇」とは、礼を尽くして厚くもてなすこと。
「冷遇」とは、不当に低い待遇や冷淡なあしらいをすること。
このように、同じ読み(同音)の語が正反対の意味を持っている場合があります。
これを「同音異義語」というのですね。
いっほうでは、「優しい」と「易しい」のように、同じ読み(訓読みなので同訓)なのにそれぞれ違う意味を持つ語もあります。
これを「同訓異字」というのですね。
口頭で伝わる(音として聞く)だけでは、その意味するところが間違って伝わる場合がよくあるので気をつけましょう。
漢字で示すようにすれば、間違いなく伝わります。
その際にひとつ気をつけていただきたいのが、漢字表記に誤りがないようにすることです。
パソコンの漢字変換機能は、時に間違いをしでかすので、あまり信用しないほうがよいでしょう。
漢字の誤用と変換ミスに要注意です!!
●欲しいままにする?
「俺も学生時代は、秀才の名を欲しいままにしていた」
という文の、どこに誤字が潜んでいるか、あなたは気づくでしょうか。
「欲しいままにして」は、正しくは「恣にして」と書きます。
「恣」という一文字で「ほしいまま」と読むのです。
●先入感?
「先入観」とは書いても、「先入感」とは書きません。
「先入見」と書くのはOK。
「先入主」という言葉も「先入観」と同じ意味なので、これを使うのもよいと思います。
●異和感?
なんとなくしっくりこない感じのことを「違和感」といいます。
私はかつて、「異和感」と書いていましたが、それは間違いだったらしいのです。
だけど、名のある小説家が(それも一人ではなく何人も)、作中で「異和感」という表記を用いていたのを知っています。
ですから私は「違和感」という字を見ると、それこそ違和感を覚えてしまうのです。
●案の上?
予想していたとおりに事が運ぶことを「案の定」といいます。
「案の上」と書くのは間違い。
「案」は「考え」や「計画」や「予想」のこと。
「定」の字は、「間違いではなく」「たしかな」「真実」という意味を持ちます。
よって「案の定」とは、「必ずそうなると決まっていた」「定めにしたがってそうなった」と言いたいときに遣う言葉です。
「案の定、失敗した」
「案の定、落第した」
「案の定、あいつのしわざだ」
というように、悪い結果が出た場合に遣われることが多いようです。
「案の定、成功した」「案の定、合格した」と言っておかしいわけではないのですが、
そういうときは「案の定」とするよりもむしろ、
「果たせるかな」または「果たして」と言い換え・書き換えをしたほうが良い、と私は思っています。
●典形的?
「形」と「型」は、どちらも「けい」と読むことができます。
そのため、「典型」と書くべきところを「典形」としてしまうことがあるようなので、注意が必要です。
↑というように、覚えやすいフレーズの字面を目で見て頭に刻むしかないでしょう。
●真近?
ゴール目前で転んだ。
結婚式直前に破談となった。
発車寸前の電車に飛び乗った。
↑というように、時間や場所がすぐ近くまで迫っていることを指す表現は数々あります。
「目前」「直前」「寸前」はすべて、「間近」ということ。
しかし、間近という語はなんとなく切迫感に欠けけます。
私など、同じく「まぢか」と読める「真近」の字を充てたくなるのですが、これは間違った表記であるので、差し控えています。
●気嫌?
機嫌がいいとか悪いとか伝えたいとき、「気嫌」と書くのはNG。
正しくは「機嫌」です。
●組する?
なんていう言い方をすることがあります。
口で言うぶんには問題ないのですが、書くとなると、少々困ったことになります。
というようなに連想が働き、「組する」と書きたくなってしまうのです。
正しくは「与する」と書きます。
ついでに言うと、
「お茶をくむ」
「流れをくむ」
「人の心中をくむ」
「くめども尽きぬ思い」
↑というようなときは、「汲む」または「酌む」と書くのですね。
さらに言うと、お酒の場合は「汲む」ではなく「酌む」と書くのだそうです。
●さて置き?
というときは、「差し置いて」または「差し措いて」と書きますね。
という場合は、「さて措き」とするのが、より適切だとされています。
文章を書き終えたら「筆を置く」とするよりも、「筆を擱く」とすると、より適切です。
↑「擱筆」という熟語があるからです。
●感謝のかぎりです?
文章では、「深謝のかぎり」とするのが決まりです。
●泥試合?
相手の弱点や秘密を暴き立て、醜い争いをすることを「どろじあい」といいます。
漢字にするなら「泥仕合」が正しい。
●当たらずと言えども遠からず?
「言えども」ではなく、「雖も」が正しい。
●正否と成否
というように、正しいことと正しくないことの両方を指していうときは「正否」という二文字を用います。
対して、「成否」という語は、事が成ることと成らないこと、つまり成功するか失敗するかを表します。
というように遣うわけですね。
正否は、問うたり問われたりするもの。
成否は、建前上問わないもの。
と受け止めていればいいんじゃないか、と私は思っています。
●実体と実態
本当の姿・正体・実質のことをいうなら「実体」と書きます。
実情とか実績についていうなら「実態」と書きます。
たとえば、
というように遣うわけですね。
実態という語は、
「経営の実態を調べる」
「介護サービスの実態を知った」
というように遣います。
●不幸と不孝
などと手紙を寄越す子は、それこそ親不孝というものです。
●業と技
というときの「わざ」は「業」と書きます。
「人間技」とするのは「人間業」の誤記。
同じ「わざ」でも、
相撲の技
家事の技
軽業
というように使い分けが必要です。
●幣と弊
おなじ「へい」でも、いろいろとあります。
「幣」の字には、「神前に供える布」「贈り物・貢ぎ物」といった意味があるのです。
貨幣の「幣」は、こうした良い意味を持つ字が充てられているのですね。
いっぽう「弊」の字には、
「物が破れてボロボロになる」
「身体がぐったりとなる」
「たるむ」
「害が生じる」
といった、あまり良くない意味があります。
よって、自分の会社を「弊社」と言って謙遜したり、
「弊害」という語に遣われたりするわけです。
「弊社」を「幣社」と書き間違えることがままあるので要注意です。
●おわりに
およそ百年前、福澤諭吉はこう述べたそうです。
「『のぼる』をいろんな字で書き分けるなんてバカな話だ。日本人は人が坂をのぼるのも猿が木にのぼるのも『のぼる』と言うのだ。かなで書くべし」(福澤諭吉全集緒言)
たしかに、
↑これらは、どれも「あう」と書いてじゅうぶんに伝わります。
↑上記3例も、「あける」と書いて、たいていは意味が通じます。
しかし、「暑い」と「熱い」は、やはり漢字で示さないと、意味が伝わりません。
「あつい!」と書かれていても、暑苦しいと文句を言っているのか、火傷でもしたのか、とっさに判断しにくいのです。
となると、福澤先生おっしゃるところの「かなで書くべし」という教えにしたがってばかりもいられません。
同音異義語が多数あることを面倒だと思わずに、「書き分ける」ことを楽しみの一つとしてはどうでしょう。
言葉の意味や場の状況に応じて適切に書き分けをする。
これは高度に知的な作業です。
ゲーム感覚で楽しみながら行なっていけば、脳に良い刺激となるに違いありません。