取材音源を文字に書き起こす作業は、文章力向上に役立つ。
と以前お話しをしました。
関連記事→テープ起こしをすると文章力が高まる!!
私はライター仕事の一環として、取材音源を文字に書き起こす機会がけっこうあります。
聞いたまま書き起こすのではなく、意味が通じやすいようにするために、言葉を整理しながら文にしていくのですが、こうした作業により、文章力は確実に向上します。
もう何十年と続けていることなので、私もわりと上手になったと思います。
その技術を、プライベートの趣味の時間に使ってみました。
Amazon Prime Video某番組のナレーション内容がとても素晴らしかったので、「聞き書き」をしてみたのです。
さすがよくできた番組で、言葉を整理する必要はさほどなく、聞いたまま書き起こすだけで十分に意味が通じる文になりました。
しかし、それをそのままブログに掲載すると著作権に抵触するおそれがあるため、あえてリライトし、編集を加えたものを、ここにご紹介したいと思います。
この番組のエピソード12「禅」より、聞き書きしたものです。
●座禅は静の修行
日常の行いは動の修行。
座禅は静の修行。
静と動のバランスが大切である。
静の修行である座禅をして心を整え、日々の暮らしにおけるすべてにおいて、座禅の心を保って行動するべし。
座禅は、自分と向き合う修行であり、心の内へと向かう旅である。
雑念を払い、静かに自分の心を見つめる。
そして、小さな空間の中で宇宙へと旅立つ。
座禅はすべての基礎である。
禅の修行は座禅に始まり座禅に終わる、とされている。
●Search inside Yourself 座禅を体験
自分の心のありか、根源を見抜いて、自分がどういう人間なのかを知る。
心に沈殿した先入観を剥がしていくと、本当の自分が見えてくる。
一切の束縛から解放されたとき、本来備わっているすべての力が解き放たれる。
それが「悟りの世界をつかむ」ということである。
そうした世界へ近づくために、禅寺を訪れた。
そして、はじめての座禅を申し出た。
まずは正しい座り方から教わる。
ちゃんと座ること自体が難しい。
しかし呼吸が整えば姿勢も整う。
座禅の始まりを告げる鐘が鳴った。
まずはゆっくりと呼吸をし、体の力を抜くことから始める。
心を無にするとはどういうことなのか。
心を空っぽにすることなのか。
あれこれと浮かぶ雑念にのみこまれて集中できない。
心が整わないときは合掌して禅僧に合図を送り、けいさくで肩を打ってもらう。そうして励ましをいただき、仕切り直す。
だがどんなにあがいても心の声は消えない。
再び、励ましを願い出た。
そのようにして続く座禅の時間は、果てしなく長いものに感じられる。
やがて、自分の心臓の鼓動に、太鼓の音を聞くような感覚を覚えた。
肌に触れる空気を実感し、かすかな畳の香りにさえも草原の息吹をかいだ。
心を無にしていても、音が聞こえる。
目も見えている。
匂いも感じる。
皮膚でも感じている。
そこには全部がある。
無とは全部あるということ。
ふだんの生活では全部はない。
関心のあることにだけ意識や感覚が向かう。
他は切り捨てている。
無とは仕切りがないことだ。
仕切りをなくせば全になる、禅になる。
あらゆるものがそのまま体験される。
元々そこにあるものすべてと親密なつながりを持てる。
それを深く味わう。
just being。
ただそこにあるだけ。
あるがままに。
ただ在るのではなく、全部と一緒に在る。
それを無と言う。
Nothing is All。
心を無にするということの意味をようやく実感できた。
濃密に今を味わうこと、すべてを受け入れること、それができたとき、すべてと心がつながる。
意識は旅を始めている。
心が地平線に伸び、大地と一体となる。
●心を無に
武道、ことに弓道の達人たちは言う。
「多くを考えず、自然の流れに身を委ねよ」と。
心を無にしなければ、弓は的に当たらない。
だからあまり考えないほうがいい。
策を弄さない。
そのほうが結果はいいのだ。
達人は的を狙わない。
射貫くのは、自分自身の心。
的を狙うと的が誘惑する、「早く放て」と、「今放たないと外れるぞ」と。
そう語りかけてくる誘惑に負けると、思うようにいかず、的に当たらない。
それに打ち勝つにはどうすればいいか。
そこにみんな苦労している。
心を無にすれば、的はこちらへと近づいてくる。
心と一体となる、その刹那に矢を放つ。
Strike Myself。
そして矢は自分自身の心を射貫く。
●まとめ
禅は、日常の小さな出来事や儚いものを尊び、そこに偉大な精神を見いだそうとする日本独自の世界観・宇宙観。
日々の仕事に打ち込み、心を無にして自分を捧げれば、心はすべてとつながる。
それが禅の教えである。