この記事のひとつ手前の記事は、
「節分とハロウィーンの共通点」
という内容でした。
前記事→節分は日本のハロウィーン。翌日の立春にそなえて除災招福!!
という妄想的前提に立ち、遊び心で文体模写をしてみたのが本記事です。
前記事と本記事、併せてご笑覧いただけますなら幸いです。
さて、まずは文体模写について少しお話ししたいと思います。
文体模写、つまり他人の文章スタイルを真似て書くことは、筆力向上におおいに役立ちます。
ですからこれは、暮らしに役立つ歳時記情報をゲットしながら、ついでに言葉力アップグレードをはかるという、一粒で二度おいしい企画なんですね。
年間シリーズ企画としてお届けする予定で、今回はその第14回目、村上龍氏バージョンをお届けします。
暮らしに役立つパスティーシュ(文体模写)
第14回・村上龍氏バージョン
●過激な発言で知られるあの作家だから、きっとこう書くに違いない・・・
「無病息災を願うなら、貴重なものを惜しげもなく手放せ」
節分の夕方は大豆を煎って外に撒く。
家の中にも撒く。
残った豆から年の数だけ食べる。
もしくは年齢より1個多い数を食べる。
その年1年を無事に過ごせることを願うためだ。
こうした習俗はもともと、散米(さんまい)と名付けられた神事儀礼だった。
散米といっても、若者に限らず、知らない人のほうが多いだろう。
それは、下級の精霊たちを供応するという発想に基づき、神社などの周囲に米をばらまいていたことを指す。
それが民間に伝播し、無病息災を願う節分の豆まきに変わっていったのだという。
この「豆まき」という習俗が広く民間に根付くにあたっては、よほど頭のいい、神主か坊さんがいたのだろう。
金に不自由しない人など滅多にいないのと同じで、自分や家族の健康にまったく不安がないという人もいない。
不安はネガティブで悪しき感情だが、危機に備えるためには必要な感情だ。
痛みという信号が身体の不調や疾患を伝えるように、不安という信号が危機や危険への対処を考えるようにと促す。
そこをうまく衝いて豆まきを広めたのが、神主や坊さんたちの偉いところだったと私は思う。
不安を温存せず、とりあえず何らかの対処をすれば、たとえ一時的なものであっても解消する。
それは普遍的な手法だ。
しかし、どのような方法で不安を相手どればよいのか示せるようでなければ指導者とは言えない。
そこで坊さんたちが目を付けたのが、「貴重な食い物をばらまく」という行為だった。
当時、米や大豆は貴重な栄養源だった。
それを惜しげもなく撒いてしまえ、口にするのは年の数だけにしろというのだから、人々は内心、かなりの抵抗感があったのではないかと思う。
しかし、それは同時に、心にある種の解放感をもたらしたはずだ。
命に関わるほど貴重なものを、思い切って手放してみる。
すると何故か不思議と気が楽になり、空いた席を埋めるかのように、自分が生きる上で必要とするものが入ってくる。
つまり、煩悩や執着をなくすことにより、おのずと道が拓けるのだと、宗教指導者たちは教えたかったのかもしれない。
いや実際は、命に関わるほど大事なものを手放すことなどできはしないのだが、イニシエーションとしてなら、できる。
「死と再生」を象徴的に表わすイニシエーション、つまり通過儀礼は古来さまざまあった。
子供である自分が死に、一人前の成人として認知されて再生するために行なわれる一連の手続きとして、割礼、抜歯、研歯、抜毛、尿道切開といった身体変工を施す社会もあった。
そうした過激な手法に比べ、大豆をばらまいて年の数だけ食べるというのはいかにも容易い。
容易いからこそ、広く受け入れられた。
今も昔も、非常に多くの人が、「食えなくなるのではないか」という不安に耐えて、日々を生きている。
普遍的で強烈な不安に怯えながら、それでも、何とか毎日を過ごし、1年を乗り切っていくしかない。
だから、何とか生き延びていくためにも、せめて年に1度は、貴重なものを手放してみるとよいのだ。
思い切って手放せば、新たに入ってくるものがある。
私は、そのことを忘れないようにしようと思う。
(つづく)